島津久光


【幕末タレント名鑑「島津久光」】

名前:島津久光(しまづひさみつ)
所属:薩摩藩→明治政府
出身地:薩摩国鹿児島城

生年月日:文化14年10月24日(1817年12月2日)
没年月日:明治20年(1887年)12月6日
思想:公武合体→倒幕







第35回は、ドでかい花火を打ち上げろ!薩摩のゴッドファーザー、島津久光さんです!

久光さんは、倒幕を推し進めた薩摩藩主の父であり、形式上、明治維新の最大の功労者とされた人物です。
何かとトラブルの中心にいることが多く、良い意味でも悪い意味でも幕末をかき回したキーマンでもあるお方です。
果たして、一体どんな生涯だったのでしょう。

久光さんは、名君と称された第10代薩摩藩主・島津斉興(なりおき)と、側室のお由羅の間に生まれました。
藩主の五男として順調に成長し、文政11年(1828年)に父の斉興が烏帽子親となって元服しました。
そして、天保10年(1839年)に、島津一門の分家・重富家の家督を相続しました。

ところが、さっそくトラブルに巻き込まれます。
父・斉興の跡取りを巡って、ドロドロの御家騒動が勃発したのです。
久光さんは五男であり、長男には島津斉彬(なりあきら)がいました。
普通であれば長男が継ぐのですが、父の斉興がお由羅の方にゾッコンになってしまい、何とかして久光さんを跡取りにしようと画策したのです。

薩摩藩は長男の斉彬派と弟の久光派に大分裂して、“お由羅の方が斉彬の子供たちを呪い殺している”とか、それを聞いた“斉彬の家臣がお由羅の方を暗殺しようとしている”とか、もう見ていられない程のドロドロ加減だったようです。
(当の久光さんと斉彬はそんなに仲が悪いというわけではなかったようですが)
そして、最終的には幕府が介入して、嘉永4年(1851年)に長男の斉彬が跡取りに決まりました。
この一連の御家騒動は「お由羅騒動」「高崎崩れ」などと呼ばれています。

ところが、それから7年後の安政5年(1858年)に兄の斉彬が死去してしまいました。
久光派の毒殺だったとう説も・・・!
再度の御家騒動を憂慮していた斉彬は「次期藩主は忠徳(後の忠義=久光さんの息子)」と遺言していたため、第12代薩摩藩主に久光さんの息子が就任することになりました。
そして、翌年には父の斉興も死去し、薩摩藩の実質上の最高権力者は久光さんとなり、「国父」と称され藩政を握っていくこととなります。

久光さんは、エネルギーに満ち満ちていたのでしょうか、さっそく薩摩藩の政治、いや日本の政治にまで介入していきます。
国父として実権を握ってから1年後の文久2年(1862年)、何と兵を率いて上京!
これは異例中の異例のことで、勝手に兵を動かすなんて江戸時代では言語道断でした。
上洛の理由は幕政改革!
優柔不断な幕府の対応を見かねていたのか、もしくは単純に自分が表に出るチャンスだと思ったのか、兵を率いて脅しを利かせながら中央政界への進出を計ったのです。

ところが、ここでまたトラブルが起きます。
久光さんの上洛を「倒幕」だと勘違いした過激な尊王攘夷派の志士たちが挙兵へと動き始めたのです。
その中には薩摩藩士も複数名見られました。

しかし、久光さんの幕政改革は「公武合体」
つまり、朝廷や幕府、雄藩などが力を合わせて政治を執り行っていこうという考え方でした。
この過激志士たちの行動は、久光さんにとっては迷惑千万だったのです。
ここで久光さんが取った対処法が物議を醸しました。
何と過激な志士の薩摩藩士を、薩摩藩士によって粛清するという同士討ちを命じたのです。
この「寺田屋事件」によって、朝廷からは信用を得た久光さんは幕政改革を迫る勅使の江戸への派遣にこぎつけ、さらに江戸への随従を命じられました。
これまた異例中の異例の出来事です。
江戸時代は幕府が頂点で絶対であったはずなのに、「幕府<朝廷・薩摩藩」という構図へと変わっていたのです。

後に「文久の改革」と呼ばれる幕政改革を幕府に命じることに成功した久光さんは、最高至高絶頂の気分だったことでしょう。
そんな久光さんは、またトラブルを起こします。
江戸から京都へ戻る途中、現在の神奈川県横浜市にあった生麦村で、乗馬して久光さん一行の通行を妨げたという理由で薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「生麦事件」を起こしてしまったのです。
幕府がイギリスへ多額の賠償金を払ったものの、薩摩藩は犯人の処刑や賠償金を拒否して、翌年の「薩英戦争」へ展開し、薩摩が戦火に包まれることになってしまいました。
(戦争後はイギリスと手を組み倒幕へと繋がっていったので、その点は良かったのかもしれませんが)

中央政界で影響力を保っていた久光さんは、「八月十八日の政変」で犬猿の仲の長州藩(尊王攘夷派)を京都から追い出し、公武合体を主導していきます。
幕末の実力者である一橋慶喜(後の徳川慶喜)、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保で構成した合議制の「参預会議」を構成したのですが、久光さんの台頭を嫌っていた慶喜と対立するというトラブルを起こし、わずか数カ月で崩壊してしまいました。

公武合体の理想である「参預会議」の崩壊がショックだったのか、久光さんは後事を小松帯刀や西郷隆盛に任せて薩摩へ帰って引き籠ってしまいました
その間、約3年間!

この間の主要な出来事には「禁門の変」、「第一次長州征討」、「薩長同盟」、「第二次長州征討」などがあります。
国父の久光さんが表舞台に出てこなかったこともあって、倒幕・明治維新を主導した薩摩の志士たちが活躍できたのかもしれません。

薩摩の志士たちは倒幕へと舵取りをしていましたが、久光さんは「公武合体」をまだあきらめていなかったようです。
慶応3年(1867年)に久光さんは再度上洛します!
そして、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と共に「四侯会議」を開きました。
ところが、久光さんは将軍となった徳川慶喜と再びトラブルを起こし、会議は崩壊してしまいました。
これを機に、薩摩は藩を挙げて武力倒幕へと突き進んでいくことになります。
そして、薩摩へ戻った久光さんは、息子の島津忠義(元・忠徳)に兵を預け、武力倒幕を成し遂げて明治新政府を樹立させることに成功しました。

明治維新後は、新政府の中心的人物で活躍しそうですが、急進的な改革に断固反対して対立します。
特に、薩摩藩士の大久保利通や西郷隆盛が主導した明治4年(1871年)7月14日に断行された「廃藩置県」には大激怒!
抗議の意味を込めて、一晩中花火を打ち上げていたそうです。
何でも、旧大名層であからさまに「廃藩置県」に反発したのは久光さんだけだったとか。

明治政府は、何とか政策を理解してもらおうと、「廃藩置県」前後から何度も何度も上京をお願いしたのですがこれも断固拒否。
明治天皇の西国巡行や、勅使の勝海舟の下向などを通して、説得から約5年後に久光さんはようやく上京しました。
内閣顧問や左大臣などに任じられましたが、結局、新政府と衝突して辞任します。

鹿児島へ帰郷した久光さんは、明治政府が出した「断髪令」や「廃刀令」などを完全に無視して、生涯髷を切らず、帯刀や和装を止めなかったそうです。
その後、悠々自適な隠居生活を送った久光さんは、島津家に伝わる史料の編纂に従事しました。
生涯を通して反りの合わなかった西郷隆盛が起こした「西南戦争」に関わることもなく、明治20年(1887年)に鹿児島で国葬をもって送られました。
享年71。

幕末の動乱で、花火のように一花咲かせようとした、薩摩の国父のお話でございました。








wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




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