徳川家茂


【幕末タレント名鑑「徳川家茂」】

名前:徳川家茂(とくがわいえもち)
所属:江戸幕府
出身地:江戸紀州藩邸(東京都港区)

生年月日:弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)
没年月日:慶応2年7月20日(1866年8月29日)
思想:公武合体、佐幕



第38回は、時代に翻弄された若きスイーツ将軍、徳川家茂さんです!

幕末の将軍というと徳川慶喜が知られていますが、慶喜は最後の最後に将軍となった人物で、それまではこの家茂さんが将軍を務めていました。
黒船来航で日本中が揺れる中、13歳という若さで突然将軍に指名され、21歳でこの世を去るという波瀾に満ちた人生は、一体どんなものだったのでしょうか。

第14代将軍となった家茂さんは、元々は将軍を継ぐ家系の徳川宗家の出身ではなく、徳川御三家の1つである紀州徳川家の出身でした。
父は徳川斉順(なりゆき)と言って、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の7男にあたる人物です。
つまり、家茂さんは第11代将軍・家斉のお孫さんということになります。
この血筋が、家茂さんを幕末の動乱の中心へと導くことになりました。

1849年(嘉永2年)、家茂さんは始め、出身である紀州徳川家の家督を相続します。
この時、わずか4歳。
父・斉順は家茂さんが生まれる直前に亡くなり、その跡を継いだ叔父の徳川斉彊(なりかつ)も30歳で死去してしまったためでした。
この後もそうですが、家茂さんの若さとは関係なく物事が急変していき、家茂さんは準備する間もなく歴史の表舞台へと担がれてしまう印象があります。
そういった星に生まれた人物だったのかもしれません。

1851年(嘉永4年)に、何と6歳で元服を迎え、当時の将軍・徳川家慶(いえよし)から1字もらい、この時「徳川慶福(よしとみ)」と名乗りました。
幼少だったことから紀州藩の政治は家臣たちが行い、家茂さんは江戸で過ごしました。
池の魚や籠の鳥をかわいがるのを楽しみとしていた心優しき少年だったと言われています。

このまま立派に成長して紀州の名君へ!
といきたいところだったのですが、時代がそうはさせてくれませんでした。
「将軍継嗣問題」が勃発したのです。
病弱で障害があったと言われる時の将軍・徳川家定(第13代)は跡取りがいなかったため、後継者は誰が良いかということで、幕政は大いに揉めていたのでした。

この時、家茂さんは本人の意思とは関係なく南紀派と言われる派閥に将軍後継者に推されます。
南紀派の保守的な派閥で代表的な人物には、後に大老となる井伊直弼(いいなおすけ)がいました。
対する相手は一橋派。
水戸徳川家出身の一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す派閥で、徳川斉昭(なりあき=慶喜の父)や松平春嶽(しゅんがく)、島津斉彬(なりあきら)などの改革的の人物がいました。

この後継者問題は、先述した家茂さんの血筋が解決へと導くことになりました。
慶喜が出身の水戸徳川家からはそれまで将軍になった人物はおらず、将軍との血筋を考えると第11代将軍・徳川家斉の孫の家茂さんが当然相応しいという結論になったのです。
1858年(安政5年)6月、正式に将軍の後継者に指名された家茂さんは江戸城に入ります。
そして7月に将軍・家定が死去すると、10月に将軍宣下を受け、第14代将軍・徳川家茂となったのでした。
13歳という若き将軍の誕生でした。

幕政は同時期に大老へ就任した井伊直弼によって推し進められ、一橋派をはじめとした尊王攘夷派などの対立グループを弾圧していきました。(「安政の大獄」)
しかし、直弼が「日部修好通商条約」を朝廷の許可を待たずに調印したことなどから、1860年(安政7年)の「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されてしまいます。
幕府の権威は地に落ち、朝廷との関係は険悪なものになっていきました。

そこで幕府は、老中首座に就いた安藤信正を中心に公武合体策を取り、幕府と朝廷の協力関係を築こうとしました。
幕府は、家茂さんと皇女・和宮(かずのみや)の降嫁を計画し、1862年(文久2年)に婚儀を成立させることに成功します。
和宮は既に婚約者がいた中の強引な婚儀な上に、嫁いだ後は武家の生活になじめず、姑の天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ=家定の正室)と大奥で嫁姑戦争をするなど、心身ともに苦しい生活を送ったと言われています。
家茂さんはそんな和宮に対して、マメに手紙を書いたりプレゼントを贈ったり、毎日毎日労わったそうです。
2人の仲は非常に睦まじく、歴代将軍夫婦で一番仲が良かったと言われています。

朝廷と幕府の関係は一見うまくいったかと思ったのですが…、朝廷は巻き返しを図る一橋派(島津久光、一橋慶喜、松平春嶽など)の力を背景に一橋慶喜を将軍後見職に就任させるなど、幕政に大いに干渉してきました。
そして、1863年(文久3年)は朝廷の干渉のままに、将軍としては229年振りの上洛を果たし、孝明天皇に攘夷を迫られ約束させられてしまいます。
つまり、開国派の幕府と攘夷派の朝廷との、板挟みにあっていたのです。

さらに朝廷は、兵庫開港を決めた老中2名を家茂さんの意思とは関係なく処分します。
これに怒った家茂さんは、2度目の上洛の1865年(慶応元年)に将軍辞任を朝廷に申し出ました。
さすがに焦った孝明天皇は家茂さんを慰留して、幕府人事には干渉しないことを約束しました。
普段は優しい家茂さんですが、将軍としての剛毅さを兼ね備えていたと感じられるエピソードです。

計3度、上洛を果たした家茂さんの最期の上洛は、1866年(慶応2年)の「第二次長州征討」でした。
長州藩は、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」で朝敵となり、「第一次長州征討」で一時は恭順の姿勢を見せていました。
しかし、高杉晋作率いる奇兵隊などによって藩論が倒幕へと転換したため、再び幕府軍が長州へ攻め込むことになったのです。

この戦いは幕府にとって散々なものになりました。
この時すでに結ばれていた「薩長同盟」により、薩摩藩からの支援を受けた長州藩の最新兵器に幕府軍は各所で大敗。
そして、続々と敗報が届く中、家茂さんは大坂城で病に倒れてしまいます。
孝明天皇が派遣した名医の治療も甲斐なく、戦いの終焉を迎えることなくこの世を去りました。
享年21。

家茂さんの信任を得て、自身の活躍の場を与えられた勝海舟は、この報せを聞き「徳川家、滅ぶ」と日記に書いたそうです。
そして、明治に入って家茂さんのことを聞かれると「お気の毒の人なりし」と涙を浮かべたといいます。

死因には諸説あるのですが、一説には甘い物の食べ過ぎだと言われています。
好物は羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラ、最中などで、それが原因でビタミンB1が不足して脚気を起こしたそうです。

ちなみに、31本の歯の中で30本が虫歯だったとか。
若者には耐えられないような心労の絶えない状況をスイーツが癒してくれたのかもしれません。

また、家茂さんと和宮の夫婦仲を物語るこんな話も残っています。
家茂の死後、江戸城にいる正室の和宮に京都の西陣織が届いたそうです。
何とこれは最後の上洛の時に「お土産は何が良いか」と尋ねる家茂に、和宮がねだったものだったのです。
その最後の優しさに和宮は泣き崩れたそうです。

和宮は愛する夫を偲んで歌を詠んでいます。
「空蝉(うつせみ)の 唐織衣(からおりごろも)何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
(おみやげに所望した西陣織の衣はもう何も役に立ちません。だって、どんな美しい綾や錦の着物も見せたい貴方がいてこそなんですから)
この歌は、家茂さんが埋葬された増上寺に、形見となった西陣織と共に奉納され、空蝉の袈裟と呼ばれ現在に伝わっているそうです。





wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




過去の幕末タレント一覧

第37回 河井継之助

第36回 グラバー

第35回 島津久光

第34回 久坂玄瑞

第33回 由利公正

第32回 橋本左内

第31回 徳川斉昭

第30回 武市半平太(瑞山)

第29回 井伊直弼

第28回 島津斉彬

第27回 山内容堂

第26回 伊達宗城

第25回 松平春嶽

第24回 ダウンゼント・ハリス

第23回 伊藤博文

第22回 榎本武揚

第21回 大隈重信

第20回 後藤象二郎

第19回 沖田総司

第18回 小松帯刀

第17回 松平容保

第16回 板垣退助

第15回 佐久間象山

第14回 桂小五郎(木戸孝允)

第13回 ペリー

第12回 近藤勇

第11回 岩倉具視

第10回 中岡慎太郎

第9回  徳川慶喜

第8回  大久保利通

第7回  吉田松陰

第6回  三条実美

第5回  勝海舟

第4回  土方歳三

第3回  高杉晋作

第2回  西郷隆盛

第1回  坂本龍馬