板垣退助


【幕末タレント名鑑 「板垣退助」】

名前:板垣退助(いたがきたいすけ)
所属:土佐藩→明治政府
出身地:土佐国高知城下中島町(高知県高知市本町)

生年月日:天保8年4月17日(1837年5月21日)
没年月日:大正8年(1919年)7月16日

思想:佐幕→尊皇・攘夷→倒幕

第16回は、明治時代の流行語大賞、板垣退助さんです!

退助さんは、土佐藩の上士(じょうし=身分の高い武士)として生まれました。
元々の名字は「乾(いぬい)」さん。
ご先祖様が武田信玄の軍師だった板垣信方(のぶかた)という武将だったんで、「戊辰戦争」の時に「板垣」へと改名したと言います。

退助さんは若い頃、幼名の「“猪”之助」の通り、暴れん坊のヤンチャ坊主だったそうです。
神社でもらったお守りをトイレに捨てて罰が当たるかどうかにチャレンジしたり、食べたら死ぬと信じられていた食べ合わせ(うなぎと梅干し、天ぷらとスイカ、など)は迷信だと実証するために人を集めて実践したり、リアリストだけどちょっと問題児?

そんな性格もあって、19歳の時には謹慎生活を命じられましたようです。
退助さんはこの時、農民たちと分け隔てなく話していたそうで、これが後に自由民権運動のリーダーとなる礎となったと言います。
土佐藩は上士と下士(かし)に分かれた厳しい身分制度があったんで、農民と話をする上士というのは、ずいぶんと変人に見られたとか。

ヤンチャな退助さんは、土佐藩の参政・吉田東洋の指導&推薦もあってオトナになり、藩の様々な重職に就任しました。
文久3年(1863年)には、自分を暗殺しに来たはずの同じ藩の中岡慎太郎と意気投合し、上士では珍しい倒幕派の急先鋒となります。
さらに、慶応元年(1865年)には江戸へ遊学に向かい、ヨーロッパ式の騎兵術を学んだと言います。
退助さんは、明治時代に自由民権運動を牽引した印象から「政治家」というイメージがあるんですが、実は「軍人」としても超優秀だったそうなんです。
その軍人としての実力はこの遊学の時に磨かれたようです。

武力倒幕を一貫して主張していた退助さんは、慶応3年(1867年)5月、薩摩藩の西郷隆盛と会談し軍事同盟の「薩土密約(さっとみつやく)」をさっと結びました。
その後、土佐に帰ると、薩長に遅れをとらないために藩の軍制改革を進め、「戊辰戦争」へと突入していきます。
新政府軍では迅衝隊大隊司令&東山道先鋒総督府参謀という何だかスゴそうなイカツイ役職に就いて、土佐藩兵を率いて進軍!

慶応4年(1868年)2月14日、江戸幕府の天領であった甲府城を手に入れる直前、先祖の板垣信方の没後320周年にあたるということで名字を「板垣」に改名しました。
これには武田信玄の領地であった甲斐(山梨県)を攻める時、板垣信方の末裔ということがあれば現地の民衆の支持を得やすく都合が良かったんですね。
結果としてこの作戦がうまくいき、甲府城を接収後に「甲州勝沼の戦い」で甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい=旧・新撰組)を撃破!
東北へ進軍後は、難攻不落と言われた会津若松城を落城させ、大いに名を挙げました。

その後、明治2年(1869年)に木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任し、翌年に高知藩の大参事となり、明治4年(1871年)には参議となり名実ともに明治を代表する政治家となっていきました。
ところが、明治6年(1873年)に「征韓論争」で敗れてしまい、西郷隆盛などと共に下野、土佐に戻ります。(「明治六年政変」)

政争に敗れた退助さんでしたが、民衆からの支持は圧倒的!
翌年に「愛国公党」を結成して、幼なじみの後藤象二郎たちと共に「民撰議院設立建白書」を提出し、高知に「立志社」を設立し、自由民権運動の先頭に立ちます。
そして、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され「帝国議会」を開くことを政府に約束させ、「自由党」を結成し初代党首となりました。

退助さんと言えば、明治の流行語となったと言われる「板垣死すとも自由は死せず」が有名ですが、この言葉が生まれたのはこの翌年の話。
岐阜で遊説中に暴漢に左胸を刺された退助さんは流血しながら、そのセリフを残したと言われています。
ところが残したセリフには諸説ありまして、
・「吾死するとも自由は死せん」→似てる!
・「板垣は死するとも自由は亡ひす」→これも似てる!
・「おらを殺したち、自由が死ぬるかねや」→土佐弁!
・「我今汝か手に死することあらんとも自由は永世不滅なるへきぞ」→長いっ!
・「痛い!医者を呼んでくれ!」→呼んであげて!
など、色々あるみたいです。
その他にも、実は側近が言ったとか、本人曰く「驚いて声も出なかった」とか、言ってないパターンなどもあるみたいです。
大混乱な現場だったでしょうから、ハッキリしたことはわからないんでしょうね。

とにかく退助さんはこの名ゼリフを残して、亡くなってしまった、わけではないですよ!
「板垣退助?最期の言葉カッコイイよね」→いや、死んでないですよ!(笑)
意外に武闘派で柔術を会得していた退助さんは、とっさに暴漢の腹に肘鉄をくらわして何とか一命を取り留めたそうです。

その後、
・明治23年(1890年) 国会開設→「立憲自由党」を結成
・明治29年(1896年) 第2次伊藤内閣の「内務大臣」に就任
・明治31年(1898年) 「憲政党」を結成→第1次大隈内閣の「内務大臣」に就任(通称・「隈板内閣(わいはんないかく)」)
・明治33年(1900年) 「立憲政友会」の創立→引退
という政治家人生を歩み、大正8年(1919年)に83歳で没しました。
とても長生きだったんですね。

ちなみに、退助さんの残された写真を見ると、歳を重ねるごとにヒゲが重力に引っ張られていく過程がわかります。(笑)



wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル