伊藤博文


【幕末タレント名鑑「伊藤博文」】

名前:伊藤博文(いとうひろぶみ)
所属:長州藩→明治政府
出身地:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)

生年月日:天保12年9月2日(1841年10月16日)
没年月日:明治42年(1909年)10月26日
思想:尊王・攘夷→開国




第23回は、初代・内閣総理大臣、伊藤博文さんです!

教科書で習った通り、“政治家”としてのイメージが強い博文さんですが、かつては幕末の動乱を過激に切り抜けた若き志士だったんです。

実父は百姓、養父が下級藩士(足軽)と、決して身分に恵まれた幼少期ではありませんでした。
安政4年(1857年)、17歳の時に、奉公先の上司の紹介で吉田松陰の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に入門した時も、身分が低いため塾の外で立ち聞きをしていたと言います。
この時の博文さんのことを松陰は「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」、「利助(としすけ=伊藤博文)亦進む、中々周旋家(政治家)になりそうな」などと、その将来性を評価しています。

安政6年(1859年)、桂小五郎(木戸孝允)の郎党(家臣)となった博文さんは、拠点を江戸へ移します。
この時、「安政の大獄」で斬首となった師匠の吉田松陰の遺体を引き取り、改葬を行ったそうです。
文久2年(1862年)には、公武合体派・長井雅学(うた)暗殺を計画、品川の「英国公使館焼き討ち」に参加、国学者・塙忠宝(はなわただとみ)の暗殺を実行、など過激な尊王攘夷派の志士として活動しました。

翌年、長州藩は藩士をイギリス留学させることにします。
予算は全部で600両でしたが、実際の経費は1人1000両!
とてもじゃないけど払えません。
そんなところに、留学予定ではなかった博文さんが登場!
洋式銃の買い付けを担当していた博文さんは、江戸の藩邸にある鉄砲購入資金1万両に目を付けます。
「留学で自分たちが“生きた器械”になるのだ!」と、よく分かるような分からないような言い分を作って、資金を横流したのでした。
そして、もちろん自分も参加。
いわゆる「長州五傑(長州ファイブ)」の1人として、イギリスへ渡航しました。

この渡航、こんな逸話が残っています。
乗船の際、井上馨と博文さんは従業員に英語で「イギリスへは何しに行くんだ?」と聞かれたそうです。
この時、「ネービー(海軍)の勉強をするためだ」と言おうとしたんですが、間違えて「ネービーゲーション(船乗り)の勉強をするためだ」と言ってしまいました。
その結果、渡航中は旅費を払っているのに水主(かこ)として扱われ、帆の上げ下げ、甲板掃除、トイレ掃除などの雑用を命じられる散々な船旅となったそうです。
博文さんにとっては、忘れたいカコというわけですね。

イギリスに到着した博文さんは、日本との国力の差を目の当たりにして愕然とし、尊王攘夷から開国へと思想を変換させます。
また、博文さんがイギリスにいる文久3年(1863年)には、6月に「馬関戦争」、8月に「八月十八日の政変」、「七卿落ち」が起き、長州藩が日本と世界から敵視される事態に陥っていました。
これを「ロンドン・タイムズ」の記事で知ったという博文さんは急いで帰国します。

元治元年(1864年)6月に帰国した博文さんは、英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと交渉を重ねますが、同年8月「四国艦隊下関砲撃事件」が起き、長州の砲台は徹底的に破壊され一時占拠されるに至りました。
この講和の使者となった高杉晋作は堂々とした態度で臨み、賠償金を幕府へ支払わせるように仕向けました。
この時、長州藩の通訳を務めたのが博文さんでした。

その後、「禁門の変」、「第一次長州征伐」で敗れ、幕府に従う姿勢を見せていた長州藩ですが、高杉晋作が1人立ち上がります。(「功山寺挙兵」)
全く味方のいない高杉でしたが、「力士隊」と言われる相撲取りのグループだけが馳せ参じました。
この隊を率いていたのが博文さんだったんです。

博文さんは「私の人生において唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と後に振り返ったと言います。

その後の「第二次長州征伐」や「戊辰戦争」などには直接関わっていません。
何をしていたかというと、武器の購入のために長崎を奔走していたそうです。
裏で倒幕を支えた陰の功労者であったと言えます。

明治維新後、名前を「博文」に改名し(それまでは「俊輔(しゅんすけ)」など)、英語がペラペラで政治能力が抜群と言うことで、外国事務掛や外国事務局判事、初代・兵庫県知事、初代・工部卿などの要職を歴任しました。
明治4年(1871年)には「岩倉使節団」の副使として欧米を歴訪します。
帰国後は「征韓論」に対して「内治優先」を掲げて大久保利通の信任を得て、「維新の三傑(大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允)」の亡き後、大久保の後継者として明治政府を牽引していきました。

明治18年(1885年)、「内閣制度」を創設し、「初代・内閣総理大臣」に就任します。
この時、44歳2ヶ月。
日本の歴代総理大臣の中で最も若い年齢だそうです。

その後、「大日本帝国憲法」の制定に努め、一般国民への政治参加の重要性を説き、アジア初の立憲体制の生みの親となりました。

枢密院議長、初代・貴族院議長、首相(合計4度)などに就いた後、初代・韓国統監に就任します。
韓国の改革と保護を推進した博文さんでしたが、独立運動の矢面に立つことになり、明治42年(1909年)、ハルビン駅で韓国人に射殺されてしまいました。
享年69。
その年の11月4日、日比谷公園で大規模な国葬が営まれました。
空もその死を悼むかのように、しとしとと雨が降ったそうです。










 

wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル



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