桂小五郎(木戸孝允)


【幕末タレント名鑑 「桂小五郎」】

 

名前:桂小五郎(かつらこごろう)
所属:長州藩→明治政府
出身地:長門国萩城下呉服町(山口県萩市呉服町)

生年月日:天保4年6月26日(1833年8月11日)
没年月日:明治10年(1877年)5月26日
思想:尊王・攘夷→倒幕



第14回は、run for ishin 逃走中、桂小五郎さんです!

「維新三傑」の1人で、別名の「木戸孝允(きどたかよし)」や、あだ名の「逃げの小五郎」でも知られる小五郎さんは、長州藩の藩医・和田家の長男として生まれました。
幼少期は病弱ということもあって和田家の跡取りは姉のダンナさんが継ぐことになり、小五郎さんはお向かいの桂家の養子となりました。

病弱の割にイタズラ小僧だったそうで、特に好きだったのは川の中に潜伏して、行き来する船を船頭さんごと転覆させることだったとか。
何だその遊びは!!!(笑)
毎度うまく船頭さんから逃げていたのですが(幼少期から「逃げの小五郎」)、ある時ついに見つかってしまい、船をこぐ櫂(かい)で頭を引っ叩かれてしまったそうです。
額から血を流す小五郎さんは、ニタニタ笑っていたとか。
何だその笑いは!!!(笑)
ちなみにその時の額の傷が後世まで残っていたとか。

さて、周囲から長く生きられないと思われていた小五郎さんは無事成長し、10代の頃は文武両道を極めていきます。
吉田松陰(よしだしょういん)に兵学を学び、剣術修行も怠りませんでした。
その結果、嘉永5年(1852年)に江戸留学が藩に認められ、20歳(数え年)の小五郎さんは長州を旅立ちました。

江戸へ着いた小五郎さんは、江戸三大道場の1つである練兵館(れんぺいかん)に入門し、わずか1年足らずで塾頭となりました。
ここで不思議な巡り合わせが起き、小五郎さんの運命を大きく変えていきます。
嘉永6年(1853年)「黒船来航」です!
黒船をリアルに目撃した小五郎さんは大いに刺激を受け、翌年に再度ペリーが来航した際には代官に申し入れ、ペリーの艦隊を見学したそうです。

江戸で剣術だけでなく西洋兵学なども学んだ小五郎さんは、藩論が公武合体から尊王攘夷へ大転換された長州藩でグングンと頭角を現わしていきました。
ところがこの時、肝心の長州藩は総スカン状態!
時代は公武合体(幕府と朝廷の協力関係)の流れの中、尊王攘夷を掲げて過激な行動を取ってしまったんです。

【過激な長州藩→四面楚歌】
・文久2年12月(1863年1月) 「イギリス大使館の焼き討ち」
・文久3年5月(1863年) 「攘夷実行」(下関の関門海峡を通る外国船への砲撃)
・文久3年8月(1863年) 「八月十八日の政変」(京都から長州藩が追放される)
・元治元年6月(1864年) 「池田屋事件」(新撰組が尊王攘夷派の志士を襲撃)
・元治元年7月(1864年) 「禁門の変」(長州藩の京都奪還計画。長州藩の敗戦)
・元治元年8月(1864年) 「下関戦争」(4カ国の外国艦隊が長州藩を砲撃、占拠)
・元治元年8月〜12月(1864年) 「第一次長州征討」(幕府軍15万による征伐、戦わず降伏)

小五郎さんは過激なことに対しては慎重な方だったんですが、どうにもこうにも止められなかったみたいです。

慎重派だったとはいえ長州藩の一員ですから、幕府を始めとした敵対勢力からの追手が小五郎さんを躍起になって探そうとするわけです。

そんな追手の網を変装などで見事にかいくぐることから付けられたあだ名が「逃げの小五郎」だったんです。
※ちなみに「木戸」という名前を藩主からもらったのは慶応元年(1865年)

幕府に恭順する姿勢を見せ意気消沈した長州藩は、再度動き始めます。
高杉晋作によるクーデターが起き、小五郎さんは藩のリーダーとして迎えられました。
そして、四面楚歌状態だった長州藩に1つの雄藩が味方に付きます。
慶応2年(1866年)の「薩長同盟」です!
小五郎さんは藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛との同盟を成功し、武器の購入を幕府から禁止されていた長州藩は、薩摩藩経由でイギリスからの武器や軍艦の購入を実現させました。

そして、同年6月「第二次長州征伐」が強行されます。
15万の幕府軍に対して長州藩は総勢4000というとんでもなく少ない兵力でしたが、小五郎さんが中心となって進めていた軍制改革が功を奏し、奇跡的に勝利!

時代は薩長を中心とした倒幕へと向かい、「戊辰戦争」を経て「明治維新」が果たされました。
小五郎さんは明治元年(1868年)に総裁局顧問、明治2年(1869年)に参事に就任し、「版籍奉還」「廃藩置県」などを提言&実施し、明治新政府で重きを成しました。
中でも新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」に、第一条の「広く会議を起こし」という開明的な一文を加えたことで知られています。

明治4年(1871年)には「岩倉使節団」の副使として欧米を視察し、帰国後は「国家の存亡は人材にあり!」という立場で、憲法制定や国民教育の充実など国内の近代化を推し進めます。
ところがこれが、西郷隆盛などが主張した「征韓論」と衝突してしまい、明治10年(1877年)に「西南戦争」へと繋がってしまいました。
鹿児島への出陣を希望した小五郎さんでしたが、九州への途次、京都で病気が悪化し「西郷よ、いいかげんにしないか」と言い残して亡くなったといいます。
享年45。

幕末という激流の中に潜み、幕府という大船を転覆させたイタズラ小僧のお話でした。



wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル