河井継之助


【幕末タレント名鑑「河井継之助」】

名前:河井継之助(かわいつぎのすけ/つぐのすけ)
所属:長岡藩
出身地:長岡城下長町(新潟県長岡市)

生年月日:1827年1月27日(文政10年1月1日)
没年月日:1868年10月1日(慶応4年8月16日)
思想:佐幕

 





第37回は、長岡藩の断固たるガトリング家老、河井継之助さんです!

現在「日本三大花火大会」の1つである長岡まつりが行われる新潟県長岡市は、「戊辰戦争」で新政府軍に攻められ戦火に覆われた場所でした。
その当時の長岡藩の実力者が、最新兵器のガトリング砲を駆使した家老の河井継之助さんでした。
良くも悪くも断固たる自身の決意を持ったお方で、功績を賞賛される一方、長岡を戦火によって荒廃させた張本人として恨まれるなど、評価が大いに分かれている人物です。
果たして、継之助さんはどんな人物だったのでしょうか。

長岡藩の一介の藩士である河井代右衛門の長男として生まれた継之助さんは、小さい頃から生意気で頑固で負けず嫌いで腕白で、周囲の人をいつも困らせてしまう子供だったようです。
剣術や馬術などを学べば、師匠が教える堅苦しい作法に反発して口答えし、何でも自己流でやってしまう始末でした。

学問の取り組み方も独特!
自分が読んだ本のほとんどを写し書きするという勉強法でした。
「漫然と読んでいても何も得られない。読書の功は、心を潜めて精読することにある」と言い、本の内容を十二分に理解するために行なっていたようです。
いやはや、パソコンで打ちこんでも大変な作業になりそうです。

成績優秀だった継之助さんは、1852年(嘉永5年)に江戸遊学を許されます。
始めは斎藤拙堂(さいとうせつどう)という朱子学者の塾に入門するのですが、「大した本が置いてない!」ということで塾を辞めて、古賀謹一郎(こがきんいちろう)という幕臣の儒学者の『久敬舎(きゅうけいしゃ)』に移りました。

塾を移した継之助さんですが、ろくに授業を受けなかったようで、時間の多くを『李忠定公集』の写本に費やしたそうです。
これは中国の宋(960〜1279年)の名宰相であった李忠定(りちゅうてい)の本だったそうで、継之助さんは寝食を忘れてのめり込んだそうです。
この李忠定という方は、大胆・率直・憂国・悲壮に満ちた人物のようで、藩政改革を断行した継之助さんの人格形成に強い影響を与えたと言われています。
継之助さんにとって「俺は間違っていない!」と思わせてくれるような会心の1冊だったのかもしれません。
とは言え、周りの門人からしてみたら、“変なヤツ”だったに違いありません。

写生をしていた継之助は、同時に『五月塾(さつきじゅく)』にも出入りをしていたと言います。
この塾は佐久間象山(さくましょうざん)が開いた私塾で、海防のために西洋砲術や蘭学を学ぶ場所でした。
同窓生には、坂本龍馬や勝海舟、吉田松陰などがいます。

この塾は気に入ったのか、きちんと通い続けていたそうです。

そんな時分、継之助さんを歴史の表舞台へ引き上げるキッカケとなった大事件が起きます。
嘉永6年(1853年)の「黒船来航」です。
老中と海防掛を兼任していた長岡藩主の牧野忠雅(まきのただまさ)は、この前代未聞の難問に対して身分を問わずに意見を求めました。
藩政改革を記した継之助さんの建白書は藩主の忠雅の目に留まり、御目付格評定方随役(おんめつけかくひょうじょうかたずいやく)という藩の首脳部に意見ができる上役に就任するという異例の大出世をしました。

しかし、この大抜擢は忠雅の独断ということもあり家老たちの大きな反発を招いて、2ヶ月ほどで辞任することになってしまいました。
失脚した継之助さんは黙っていません。
門閥弾劾の建白書を藩主に提出しました。
これは旧態依然とした藩の政治システムへはばかることなくダメ出しをする意見書でした。

この1件によって強烈な存在感を示した継之助さんは、藩主の忠雅からお世継ぎの忠恭(ただゆき)の御聴覧(ごちょうらん≒家庭教師)を命じられます。
継之助さんの能力を買っていた忠雅は、家老の反発もあって継之助さんを藩政に置けないことを残念に思い、御聴覧役を提案してきたのではないでしょうか。
このありがたいお達しに対して、継之助さんは何と拒否!
言い分はこうでした。
「私は講釈のために学問をしてきたのではない。それなら講釈師に頼むがよい」
もちろん、藩の首脳部からお叱りを受けました。

藩政から離れた継之助さんは、有意義に時間を使っていきます。
射撃の腕を磨き、再び江戸へ遊学。
その後、備中松山藩(岡山県高梁市)の藩政改革者である山田方谷(やまだほうこく)の教えを請い、さらに九州の長崎や熊本へと赴き見識を深めました。

1862年(文久2年)に藩主・忠恭が京都所司代に就任すると、継之助さんはこれに意見書を提出し大反対します。
「威信が落ちた幕府に協力するよりも藩政改革を急ぐべき」という継之助さんの意見は反映されることなく、翌年に忠恭は上洛し、継之助さんも京都詰としてお供をしました。
「このまま在京すれば政争に巻き込まれる」と判断した継之助さんは、上洛後に再度、忠恭へ辞任の説得をします。
ようやく意見が受け入れられ忠恭は京都所司代を辞任して江戸へ戻りますが、今度は老中への推薦の話がきてしまいます。

江戸で公用人に任命されていた継之助さんはとにかく長岡藩を幕政の中心から遠ざけたい一心でこれにも大反対!
ウマく話が進んでいきそうな時、「辞任しないでほしい」と分家の笠間藩主・牧野貞明(まきのさだあき)が説得に訪れました。
この時、忠恭が老中を辞任できるように丁重にお断りを入れれば良かったのですが、何を思ったか、継之助さんは自分より格段に身分が高い貞明を大罵倒!
継之助さんが職を辞任することになり、長岡へ帰ることになってしまいました。


公の職を辞した継之助さんでしたが、藩主からの信任も得ていたことから1865年(慶応元年)に郡奉行に就任し念願の藩政改革に取り組みます。
藩の旧態依然とした組織を改革し、慣習化したワイロを禁止し、賭博や遊郭も禁止して風紀の乱れを一掃しました。
また、農民に対する武士の不当な徴収を罰し、商業振興のために特定の税や株の特権などを解消しました。
こういった改革の中で、継之助さんは町奉行、さらには家老(家臣のトップ)へと出世していくのでした。

藩政改革に成功した継之助さんですが、日本の政治も大きな転換点を迎えていました。
1867年(慶応3年)に「大政奉還」が行われたのです。
この報せを受けて藩主の忠訓(ただくに=忠恭の跡を継いだ)に伴って上坂しました。
その直後に「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府は終焉を迎えてしまいます。
これに異を唱えた継之助さんは、江戸幕府・徳川家の擁護と、薩摩・長州を批判する内容の建白書を提出しました。

この建白書は幕末の動乱に大きな影響を与えることはできず、「戊申戦争」へと突入していきました。
一時、江戸へ戻った継之助さんは、銃2000挺や大砲30門、ガトリング砲2門などの最新兵器を購入して長岡へ帰藩します。
ガトリング砲は当時の日本には3門しかなかったそうで、その内の2門を継之助さん率いる長岡藩が所持していたということになります。
この事実は敵味方に脅威を与え、長岡が戦乱へ巻き込まれる要因の1つになってしまいました。

この時、長岡城に入った継之助さんはこう藩士に告げたそうです。
「今般(こんぱん)、姦臣(かんしん)、天子を挟(さしはさ)んで幕府を陥れ、御譜代の諸侯、往々幕を背いて薩長に通ず。余、小藩といえども孤城に拠(よ)りて国中に独立し、存亡をただ天に任せ、もって三百年の主恩に報い、かつ義藩の嚆矢(こうし)ならんと欲す」

つまり、、、
「野心を持った家臣(薩摩や長州)が天皇を使って幕府を陥れた。幕府の譜代大名などは、幕府を裏切って薩長に通じている!私は小さな藩といえども、孤独な城に籠り、存亡は天に任せて、300年に及ぶ幕府への恩に報いて、義を尽くした藩の手本となるために戦う!」
という、藩士一同、胸が熱くなったであろう長岡藩の独立断行の決意表明だったわけです。
この言葉を聞くと「すわ戦じゃ!」とも取れますが、継之助さんが主張したのはあくまで、薩長などの他藩の力に頼らず冒されず、己の藩の力で生きていくという“武装中立”の考え方でした。
この決意表明は長岡藩内の新政府恭順派を抑え、藩内の士気を上げるためのものであったのではないかと思います。

さて、西から東へと攻め込んでくる新政府軍はいよいよ長岡藩にも迫ってきました。
継之助さんは“武装中立”であり戦争は望まないという立場で和平交渉に臨みます。(「小千谷会談」)
相手は新政府軍の軍監である24歳の岩村精一郎。
42歳の継之助さとは親子ほどの年齢差がありました。
連戦連勝で気を良くしていた岩村は、ガトリング砲などを擁する長岡藩の武装中立などの立場を全く理解しようともせず、継之助さんの嘆願書すら受け取らずに席を立ち、30分ほどで交渉は決裂してしまいます。
こうして新政府軍と長岡藩の4ヵ月に渡る戦争が始まってしまうのでした。(「北越戦争」)

長岡藩は、「近代的な軍隊」「ガトリング砲などの最新兵器」「継之助さんの戦術」などにより開戦当初は新政府軍と互角に戦い、司令官を討ち取るほどの戦果を見せました。
しかし、多勢に無勢、長岡藩は徐々に押され始め、継之助さん自らガトリング砲を操っての防戦も実らず、長岡城を奪われてしまいます。
万事休すと思われるこの局面で、継之助さんは何と逆襲に転じました。
いったん奪われた長岡城に夜襲を仕掛け、何と奪還に成功したのです!
しかし、継之助さんはこの夜襲中に左足に銃弾を受けてしまいます。
指揮官の負傷によって長岡藩の士気は低下し、奪還してから4日後に長岡城は再び新政府軍の手に落ちました。

こうして北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、継之助さんは会津への脱出を図ります。
しかし、夜襲中に受けた傷は脱走中に悪化し手遅れの状態となっていました。
会津へ向かう八十里越(はちじゅうりごえ)を越える際にはこんな自嘲の句を詠んでいます。
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
自らの最期を悟った継之助さんは、家臣に火葬を指示した翌日、談笑した後に危篤状態となり亡くなりました。
享年42。

志半ばで倒れた継之助さんの意思は意外なところに引き継がれています。
継之助さんは、最期まで付き添ってくれた外山脩造(とやましゅうぞう)に「もう武士の時代は終わる。これからは実力のある者が勝つ世の中になる。戦争が終わったら商人になれ」と遺言したと言います。
この外山は遺言を胸に商人となって大成功を収め、何と「アサヒビール」や「阪神タイガース」の生みの親となっています。





wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




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