井伊直弼


【幕末タレント名鑑「井伊直弼」】

名前:井伊直弼(いいなおすけ)
所属:幕府
出身地:近江国彦根城二の丸(滋賀県彦根市金亀町)

生年月日:文化12年10月29日(1815年11月29日)
没年月日:安政7年3月3日(1860年3月24日)
思想:佐幕、開国




第29回は、埋もれ木の茶歌鼓(ちゃかぽん)大老、井伊直弼さんです!

直弼さんは、「日米修好通商条約」を調印し、「安政の大獄」で粛清をして、「桜田門外の変」で討たれた人物、と教科書で習うことが多いお方です。
また、“朝廷の許可を待たずに調印した”ことや、志士たちの大先生だった“吉田松陰を粛清した”ことなどで、ドラマや映画だとイメージが悪く描かれることが多いお方でもありますが、一体どんな人物だったんでしょう。

直弼さんは、第13代彦根藩主・井伊直中(なおなか)の14男(!)として誕生しました。
14男となると次期藩主への可能性は非常に低く、将来は子供のいない他家への養子への道がお決まりでした。
既に兄の直亮(なおあき)が家督を相続しており、実際、直弼さんの他のお兄さんたちは他家へ養子になって彦根を離れていました。

直弼さんも他家の養子へ!
という話もないことはなかったんですが、具体的な話にはならず、兄から捨扶持(すてぶち=生活費)を与えられて、城下に屋敷を構えて暮らすことになりました。
日の目を見ることのない自身の立場を嘆いてか、この屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、学問や文武に生きる道を選びました。
何をしたかと言えば、居合術や槍術、鼓、茶道、禅、和歌など。

直弼さんは粘り強い性格で、一度やり始めたものは途中でやめず納得するまでやりとげていたそうです。
そのため、埋木舎での習い事は超一流に!
茶道は「一期一会」をテーマに研究を重ね自身の流派を立てるほどで、禅では13歳の頃から清凉寺に通い31歳で悟りを開いたという証明書を授かり、和歌では1000首以上の和歌を残して古典文学や国学を極めました。
そんな直弼さんのことを周りの人は「ちゃかぽん(茶・歌・鼓)」と呼んだとか。
「ぽん」は太鼓を叩く音のことのようです。
風流人をいじる人も、また風流人ですね。

さて、そんな生活を17歳から32歳の15年間続けた直弼さんに、とんでもない転機が訪れます。
弘化3年(1846年)、兄の直亮の跡継ぎに決まっていた、同じく兄の直元(なおもと)が急死してしまったんです。
他の兄たちは他家へ養子に行ってしまっているということで、どういう巡り合わせか、次期彦根藩主は直弼さんに決定しました。

嘉永3年(1850年)、直亮の死を受けて家督を継ぎ第15代藩主となります。
藩主になった直弼さんは、全ての領地に足を運び、先代が残したお金を藩士や領民に惜しみなく与え、貧困の人や病人などを救済したと言われています。

藩主になってから3年後の嘉永6年(1853年)に黒船が来航しました。
この時、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は大名や幕臣、そして庶民にまで意見を求めましたが、帰ってくる答えはほとんどが攘夷!
外国船は打ち払えと言う考え方でした。
幕政に携わる面々も同様だったのですが、直弼さんが提案したのは開国でした!

ここから幕政は2つの勢力に大きく対立していきます。
それまでの幕府の政治というのは、井伊家など「関ヶ原の戦い」以前に徳川家の家臣であった家柄の譜代大名が中心でした。
ところが、老中の阿部正弘がその方針を換え、譜代大名以外の雄藩(有力な藩)の大名と連携させる政策を取ったんです。
これは直弼さんにとってはオイシクありません!
そして、その雄藩の代表である水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)と来たら、超が付くほどの攘夷論者!

【譜代グループ=筆頭:直弼さん=開国派】
    vs
【雄藩グループ=筆頭:徳川斉昭、松平春嶽など=攘夷派】

というわけです。
さらにここに、将軍継嗣問題が絡んできます!
まとめると、、、

【譜代=直弼さん=開国=南紀派(徳川慶福推し)】
    vs
【雄藩=徳川斉昭、松平春嶽=攘夷=一橋派(一橋慶喜推し)】


という構図になります。
ゴチャゴチャドロドロしてらっしゃいます。

さて、そんな政争を制したのが直弼さんでした!
安政5年(1858年)4月に大老へ就任し、幕府の権力を手中に収めたんです。
6月には、朝廷の勅許を得ぬまま「日米修好通商条約」に調印しました。
この条約に対して一橋派は違勅調印であると大批判!
江戸城へ詰問しにやってきたことがありました。
直弼さんはこのピンチを逆手に取り、「無断登城である」として一橋派を謹慎処分として幕政から一斉排除しました。
政治家として非常にしたたかな一面です。

政敵を排除した直弼さんは、同年12月に徳川慶福を第14代の将軍に就けることに成功しました。(慶福は改名して家茂に)
ところが、謹慎処分を受けた斉昭の水戸藩も黙ってはいません。
水戸藩は幕府の家臣であるにも関わらず、勝手に直接朝廷とやりとりをして、朝廷から幕府を批判する内容の「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を引き出すことに成功しました。

これは直弼さんにとっては大問題!
放っておいたら幕府の尊厳、存続に関わってきます。
そこで、この一件に関わった人物を一斉粛清することを決定しました。
これが、安政6年(1859年)の「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

この弾圧で、大ダメージを受けて直弼さんに大きな恨みを持った藩がありました。
それが三度登場の水戸藩です。
前藩主の斉昭は永蟄居(えいちっきょ=一生謹慎)、藩主の慶篤や、一橋慶喜などにも謹慎処分が下されたためでした。

そして、安政7年(1860年)3月3日、水戸浪士を中心とした18名が江戸城へ駕籠に乗って登城する直弼さんを襲撃する「桜田門外の変」が起きます。
初めの銃撃で負傷した直弼さんは、達人レベルの居合術で立ち向かいこともできず、駕籠に刀を突き刺され首を取られてしまいました。
大老が浪士に暗殺されるという大事件により、幕府の権力は失墜し、時代は倒幕へと流れていったと言われています。

「桜田門外の変」の前に不穏な空気を感じ取った周囲は、警護を増やすことや、彦根へ帰ることなどを勧めたそうですが、直弼さんは全て断ったそうです。

直弼さんは、小さい頃から一度決めたことはやり抜く人物だったと言われています。
「開国と決めたら開国!」という自分の信念を曲げなかったゆえの最期だったのかもしれません。




ちなみに直弼さんは、「安政の大獄」が一段落した後、自分の姿を絵師に描かせて、小さい頃に禅を勉強した思い出の寺である清凉寺に絵を収めています。
絵の上にはこんな和歌が残されたそうです。

「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな」
“故郷の近江の海(琵琶湖)の打ちつける波のように、私もこの世のために心を砕いてきたのです”









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