徳川斉昭


【幕末タレント名鑑「徳川斉昭」】

名前:徳川斉昭(とくがわなりあき)
所属:水戸藩
出身地:江戸小石川水戸藩邸(東京都文京区)

生年月日:寛政12年3月11日(1800年4月4日)
没年月日:万延元年8月15日(1860年9月29日)
思想:尊王・攘夷





第31回は、烈し過ぎる副将軍、徳川斉昭さんです!

斉昭さんは、御三家の1つである水戸徳川家に生まれ、第9代水戸藩主となりました。
また、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜のお父さんとしても知られています。
第2代水戸藩主には、「水戸黄門」で有名な徳川光圀がいまして、斉昭さんは現在、その光圀と共に水戸市の常磐(ときわ)神社に祭神として祀られています。
諡号(しごう=生前の行いに基づく死後の贈り名)は、「烈公(れっこう)」!
その名が示す通り、烈しい生涯を送ったお方でした。

水戸藩では、光圀が編纂した『大日本史』に始まる「水戸学」が学ばれていました。
幼少期から非常に優秀だったという斉昭さんも「水戸学」を学び、強烈な尊王思想を持つようになりました。
当時、常陸国(茨城県)に外国船が多数見られるようになり、文政7年(1824年)にはイギリス船が水や食料を求めて上陸する事件が起き、“尊王”思想と相まって、“尊王攘夷”思想へと展開していくことになりました。

何だか、思想やら学問やらでごちゃごちゃっとしてわかりづらいのですが、ザックリ申しますと、

水戸学≒“尊王思想”⇒日本の伝統が第一!「朝廷>幕府」
外国船襲来⇒“攘夷思想”⇒外国船は打ち払え!「鎖国>開国」

となり、この2つの思想が合わさって、(あくまでザックリですが)“尊王攘夷”思想となったわけです。
この水戸学から興る思想は、吉田松陰や西郷隆盛などの志士たちに大きな影響を与えたと言います。

さて、そういった環境の中で育った斉昭さんは、文政12年(1829年)に家督を相続して藩主となります。
そして、会沢正志斎(せいしさい)や藤田東湖(とうこ)をはじめとした改革派の家臣と共に藩政改革を行っていきました。
下級武士の登用や新田開発、殖産興業などを推し進め、藩校「弘道館」を開校し、農村部には郷校を開いて次世代の教育にも努めます。
(水戸市に残る「弘道館」は国の特別史跡で、正庁や正門、至善堂は国の重要文化財となっています)

また、「攘夷!開国反対!」と言っている割に海外のものにはとても興味があったらしく、蘭学者を登用して西洋砲術を取り入れて軍制改革を行っています。
幕府に対しても海防のための蝦夷地開拓や大船の建設許可を提案して改革を迫ったそうです。
水野忠邦の「天保の改革」などにも大きな影響を与えた斉昭さんは、自身が目標とした光圀と同じく、「副将軍」と称されたと言います。

しかし、その改革力の源泉である性格の烈しさが仇となってしまいました。
強烈な尊王思想を持つ斉昭さんは、仏教を敵視し、寺院を破却させて梵鐘を大砲にしたり、領民の葬式を仏式から神道式に強制的に変えさせたりするなどの大弾圧を行いました。
また、「追鳥狩(おいとりがり=大規模な軍事訓練)」や鉄砲射撃事件など、幕府に黙って勝手に軍事行動も行っていました。

こういった行動が幕府の逆鱗に触れます。
江戸に呼び出された斉昭さんに下された処分は、隠居・謹慎!
カリスマ性があって改革派から人気のあった斉昭さんですが、“英雄色を好む”の故事通りの艶福家(女性の敵!)だったそうで、幕府に影響力のある大奥の女性からはかなり嫌われていたそうです。
そういった背景も関係していた処分かもしれません。
いつの時代も女性を敵に回したら、えらいことになりますね。

さて、一度、表舞台から消えた斉昭さんですが、5年後の嘉永2年(1849年)に藩政に復帰することを許されます。
理由は、老中の首座に阿部正弘(あべまさひろ)が就任したからでした。
この方は幕府の中では珍しい?斉昭さん贔屓の方だったのです。
そして、嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀へ来航すると、斉昭さんは正弘から対応策を求められ、海防参与に任じられました。

斉昭さんの考え方は、もちろん“攘夷”!
“上陸拒否”、“開国反対”、“外国船は打ち払え”という考え方で、江戸湾を守るため大砲74門と軍艦を幕府に献上したほどでした。
ところが、幕府は驚くほど弱腰!
安政元年(1854年)に「日米和親条約」を結んで開国をしてしまったんです。
これを受けて、斉昭さんは海防参与を辞任することを選びました。

それでも時代は斉昭さんを必要としており、安政2年(1855年)に今度は軍制改革参与として幕政に復帰します。
再度“開国反対!”、“攘夷実行!”を目指した斉昭さんでしたが、同年の「安政の大地震」で藤田東湖などのブレーンを失い、安政4年(1857年)に斉昭贔屓の阿部正弘が死去してしまいました。
「これから!」という時に不運が重なり、斉昭さんの指導力は薄くなり、参与を辞任するに至ってしまいます。
何だか、もどかしい!

この一件は、「将軍継嗣問題」にも大きな影響を与えました。
当時、13代将軍の徳川家定の跡取りで「南紀派」と「一橋派」で大いに揉めていました。
これまたザックリ申しますと、

・「南紀派」⇒徳川慶福(よしとみ=後の家茂)を推す、井伊直弼グループ=“開国派!”
・「一橋派」⇒一橋慶喜(よしのぶ=斉昭さんの息子)を推す、徳川斉昭グループ=“攘夷派!”


といった具合になるかと思います。

結果的に斉昭さん率いる一橋派は敗れて、徳川慶福が跡取りに決まりました。
そして、直弼は大老に就任し、勅許を待たずに「日米修好通商条約」に調印してしまいます。
弱腰の開国政策と朝廷をないがしろにした直弼に激怒した斉昭さんは江戸城に乗り込むのですが、無断登城の罪で直弼から謹慎処分を下され、事実上の政界引退を突きつけられてしまいました。

ここで立ち上がったのが、斉昭さんの思想を受け継いだ尊王攘夷派の志士たちでした。
「この状況を逆転させるには、朝廷の力を借りるしかない!」と幕政改革を命じる勅命を引き出すことに奔走します。
(朝廷も斉昭さんと同じく“攘夷”の考え方なので、斉昭さんに幕府を何とかしてもらいたい)
こうして出されたのが「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」です!
これは幕府を無視して水戸藩へ下された勅命でした。
この一件に直弼は激怒し、斉昭さんは水戸で永蟄居(死ぬまで謹慎)を命じられてしまいます。(「安政の大獄」)

こうして斉昭さん率いる攘夷派は、直弼率いる開国派との政争に完全に敗れました。
しかし!
斉昭さんの意志を受け継いだ志士が再度立ち上がります。
万延元年(1860年)3月3日、水戸の脱藩浪士が登城中の井伊直弼を討ち取ったのです。(「桜田門外の変」)

これを機に再び幕政へ!
といきたいところでしたが、永蟄居の処分を解くことはできず、同年8月15日に水戸で急逝してしまいました。
もどかしい。。。
「桜田門外の変」から5ヵ月後ということもあり、直弼の家臣(彦根藩士)に暗殺されたという噂が流れたと言います。

志半ばで亡くなった斉昭さんですが、“尊王攘夷”という思想は幕末の志士たちのアイデンティティとなり、やがて“倒幕”へと展開して“明治維新”へと繋がっていきました。

ちなみに、日本で初めてエレベーターを考案したのは斉昭さんだそうです。
斉昭さんが、「領民と偕(とも)に楽しむ」場所として造った日本三名園の1つである「偕楽園(かいらくえん)」の好文亭に、手動で引き上げる配膳用エレベーターを設置したのが日本初なんだとか。

また、斉昭さんは牛肉と牛乳が大好物だったと言います。
特に牛乳は健康のために毎日5合(≒900ml)を飲んでいたんだとそうです。
モー烈〜! (牛の鳴き声と斉昭さんの諡号をかけている模様)









wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




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