佐久間象山(さくましょうざん)


【幕末タレント名鑑 「佐久間象山」】

名前:佐久間象山(さくましょうざん)
所属:松代藩
出身地:信濃国埴科郡松代(長野県長野市松代)

生年月日:文化8年2月28日(1811年3月22日)
没年月日:元治元年7月11日(1864年8月12日)
思想:尊王・攘夷→開国・佐幕


第15回は、傲岸不遜な国家の財産、佐久間象山先生です!

象山先生は、真田家が治める松代藩で右筆を務めていた佐久間国善(くによし)の長男として生まれました。
お父さんは右筆でありながら剣術も極めていたそうで、藩から一目置かれた人物だったと言います。
そんなお父さんの下で成長した象山先生は、3歳の頃には易経の六十四卦(占いの64パターン)を暗記するほどの神童ぶりを発揮していたとか。
ただその一方、「佐久間の門から石が降る、石投げ小僧の啓之助(=象山先生)」といじられるほど近所で有名な暴れん坊だったそうです。

象山先生の小さい頃のあだ名は、松代の方言で「フクロウ」の意味の「テテツポウ」。
理由は、二重まぶたで眼がギラギラしていたからだそう。
写真を見たら確かに納得の彫りの深さ!
幕末の草刈正雄!

18歳で家督を相続した後は、21歳で藩主の真田幸貫(ゆきつら)の跡継ぎである幸良(ゆきよし)の近習&教育係に抜擢されました。
元々アウトローな方なので、家老の方に無礼な態度を取って謹慎処分を命じられたこともあったんですが、幸貫からの評価は非常に高かったと言います。

その後は江戸に出て、天保10年(1839年)に私塾「象山書院(ぞうやましょいん)」を開き、この時は儒学者として名を馳せました。
兵学者として知られるのはこの後!
キッカケは藩主の幸貫が、江戸幕府の老中&海防掛(かいぼうがかり)に任命されたことでした。
松代藩は海防掛として日本の海を守るために、最先端の西洋の兵学を学ばないといけないわけですが、この担当者に象山先生が大抜擢されたわけなんです。
抜擢後、江川担庵(たんあん)の塾に入門して西洋式砲術を学び、幸貫に「国防には外国船の購入と操船技術の習得が必要」という極めて斬新な『海防八策』を提出し、さすが幕末の大天才、見事に砲術のエキスパートとなりました。

その後、嘉永4年(1851年)に兵学を教授するための私塾を開きます。
既に天下に名を知られていた象山先生の下には多くの門下生が集いました。
門下には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、河井継之助、などなど幕末の超ビッグネームが並びます。
ちなみに、勝海舟の「海舟」は象山先生が自分の書斎に手書きの「海舟書屋」という額を飾っていたことに由来するそうで、象山先生は勝海舟の妹を妻に迎えるほど二人は深く交流していたとか。

嘉永6年(1853年)、象山先生が常々唱えていた海防論が必要となる事態が訪れました。
ペリーによる黒船来航です!
まさに象山先生が活躍する舞台が整ったわけなんですが、ここで大問題が・・・!
翌年に再度来航した黒船に対して、弟子の吉田松陰が密航を企て失敗し投獄されてしまったんです。
密航は象山先生が勧めたということもあり、松陰に連座して松代で蟄居を言い渡されてしましました。

時代は象山先生が必要なのに、蟄居生活は何と9年!
だいぶ暇を持て余したのか、この謹慎生活の間に磁石を使った地震予知機や電池などの開発に成功したと言われています。
攘夷ではなく開国へと思想が傾いていた象山先生が再び表舞台に立つのは、文久2年(1862年)!
象山先生を自分の藩に招こうとした土佐藩の山内容堂や長州藩の毛利敬親などの働きかけによって蟄居を解除されました。
土佐藩からは中岡慎太郎、長州藩からは久坂玄瑞(くさかげんずい)が象山先生を招聘しに来たのですが、それには乗らず松代藩の改革を推し進める道を選びました。

元治元年(1864年)になると、象山先生は故郷を離れ京都へ上りました!
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が、混乱を極めた政局に対して象山先生の意見を求めたんです。
この上洛に対して家族や友人は大反対!
京都は尊王攘夷派の巣窟と化していて、開国派の「西洋かぶれ」として超有名人な象山先生は、間違いなく「天誅(てんちゅう)」のターゲットとなってしまうからなんです。
しかし、まだまだアウトローな象山先生はそんなことお構いなし!
上洛して海陸御備向手付御雇という役職に就き、朝廷の要人や一橋慶喜、将軍の徳川家茂などに面会し、「公武合体論」と「開国論」を述べたそうです。

そんな象山先生のことを、前年に「八月十八日の政変」で京都から追放され、同年には新撰組による「池田屋事件」で多数の志士を失った長州藩を代表とする尊王攘夷派が許すわけはありませんでした。
元治元年(1864年)7月11日、三条木橋町筋を通っていた象山先生は「るろうに剣心」の緋村剣心のモデルと言われる河上彦斎(かわかみげんさい)などに襲われ暗殺されてしまいました。
享年54でした。
象山先生が生きていたら、また別のカタチの国家が出来ていたかもしれない、そんなことを思うんですよね。



wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル