橋本左内


【幕末タレント名鑑「橋本左内」】

名前:橋本左内(はしもとさない)
所属:福井藩
出身地:福井城下常磐町(福井県福井市春山)

生年月日:天保5年3月11日(1834年4月19日)
没年月日:安政6年10月7日(1859年11月1日)
思想:佐幕・開国






第32回は、福井が生んだ悲運の天才志士、橋本左内さんです!

左内さんは、一般的にあまり馴染みがないかもしれませんが、まさに“天才”と言うに相応しい人物でした。
その実力は、維新三傑の1人の西郷隆盛が「同輩においては橋本左内に服す(敵わない)」と評したほどです。
また、教科書で習った『五箇条の御誓文』は、左内さんの考え方が大きく反映されていたとも言われています。
果たして、どんな人物だったんでしょうか。

左内さんは、徳川家康の次男・結城秀康に始まる越前の福井藩に仕える医者(奥外科医)の長男として生まれました。
幼少期から聡明で、15歳の時には自分の哲学をまとめた『啓発録(けいはつろく)』を記しています。
これがまた達見なんです!

書いてあるか5項目をザックリまとめてみます。

【1】「稚心(ちしん)を去れ」
→稚児のような誰かに甘えたい心が残っていれば何をやっても上達しない。私は稚心を捨てて立派な武士となる。
【2】「気を振(ふる)う」
→負けることは恥だ。決して負けぬように常に気を奮い立たせておくことが大事だ。
【3】「志を立つ」
→志のない者は虫けらでる。志を持って地道に努力すれば、きっと叶う。
【4】「学に勉む」
→志を立てたならば勉強に励むべきだ。ただ本を読んで字を書くのではなく、自分の知識を豊かにして心を鍛錬するべきである。すぐに結果を求めるのは真の勉強とは言えない。
【5】「交友を択(えら)ぶ」
→友人には益友と損友がいる。友人は選ぶべきだ。


恐るべき15歳・・・!
何と分別のある若者でしょうか。
未だにキャベツとレタスの違いがわからない私とは大違いです。

さて、左内さんは『啓発録』をまとめた後、左内さんは大坂にある緒方洪庵の「適塾」で蘭学や蘭方医学を学びました。
この塾は福沢諭吉や大村益次郎など、多くの人材を輩出しています。
入門してから3年後の嘉永5年(1852年)に父が亡くなったため帰省し、家督を継いで藩医となりました。

安政元年(1854年)には、学識を深めるために江戸へ遊学します。
この時、左内さんは引き続き蘭学を学ぶ一方、英語やドイツ語をマスターしたそうです。
独学で身に付けたというから驚きです。
また江戸で、水戸藩の大先生・藤田東湖(徳川斉昭のブレーン)や薩摩藩の西郷隆盛などと交流を深めました。
お二人は左内さんにとって益友だったんですね〜。

江戸で学識や交友を深めた左内さんは、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)の側近に大抜擢されます。
安政4年(1857年)には藩校「明道館」の学監同様心得(≒教頭先生)に任じられ、一般庶民も入学できるようにするなど、教育改革を断行しました。
そして、同じ年に春嶽の侍読(じどく≒教授)・御内用掛(ごないようがかり)という超側近となり、当時最大の政治課題であった「将軍継嗣問題」の担当に指名されました。
この時、まだ24歳!

左内さんのずば抜けた才能と春嶽の大きな期待が感じ取れます。

左内さんにはとある理想の国家像があったと言います。
これまたザックリまとめてみますと、、、

・一橋慶喜(後の徳川慶喜)を頂点とした中央政権国家
・身分に関係なく優秀な人材を登用する
・積極的な海外貿易で西洋文化を導入する(開国による富国強兵策)
・日本とロシアの連携(攻守同盟、統制貿易など)

と言った塩梅でしょうか。

このコラムでも度々登場する「将軍継嗣問題」ですが、春嶽も左内さんも一橋派(慶喜を推すグループ)でした。
政敵の南紀派(徳川慶福を推すグループ)の中心人物である井伊直弼を失脚させようと朝廷工作を行った左内さんでしたが、直弼が一枚上手でした。

大老に就任した直弼は慶福(後の徳川家茂)を将軍の跡継ぎに決定し、「日米修好通商条約」では勅許を待たずに独断で調印してしまいます。
この独断専行を咎めようと江戸城に登った春嶽は、逆に不時登城の罪で強制的に隠居・謹慎させられました。
直弼とあからさまに対立していた左内さんも政治活動を断念し、隠居生活をせざるを得なくなってしまいます。

こうして、幕府に敵対した勢力を大弾圧する「安政の大獄」が始まります。
隠居した左内さんですが、一橋派の中心人物を直弼は放っておきませんでした。
奉行所や評定所で執拗な取り調べを受け、安政6年(1859年)に江戸伝馬町の牢獄に入れられてしまいます。
対面はなかったそうですが、長州藩の吉田松陰も同時期に同場所へ捕えられています。

奉行所や牢獄での正々堂々、理路整然とした左内さんの言動は、弾圧を加えている側の幕府の役人の中からも理解者が出るほどだったと言います。
処罰は当初「遠島(えんとう=島流し)」に決定しました。
ところが、独裁者と化していた直弼に敵対したということが原因となったのでしょうか、「公儀憚(はばか)らざるいたし方、右始末不届付」との罪状で「死罪」に修正され、斬首刑に処されます。
入獄してからわずか5日後の、安政6年10月7日(1859年11月1日)の悲運でした。

刑の執行を聞いた西郷隆盛は「悲憤千万堪え難き時世に御座候」と左内さんを失った行き場のない悔しさをつづり、『西南戦争』で亡くなるまで左内さんからもらった手紙を肌身離さず所持していたと言います。

志半ばで倒れた左内さんでしたが、描いた国家の理想は同じ福井藩に仕えた元同僚の由利公正(ゆりきみまさ)へと受け継がれていきました。
明治新政府の参与となった由利は『五箇条の御誓文』を起案します。
これには、、、

【1】「広く会議を興し、万機公論に決すべし」
→広く会議を開いて、すべては公正な意見で決めよう
【2】「上下(しょうか)心を一(いつ)にして、盛んに経綸(けいりん)を行うべし」
→統治者と人民が心を1つにして政策を行おう
【3】「官武一途(かんぶいっと)庶民にいたるまで、各々その志を遂げ、人心をして倦(うま)ざらしめんことを要す」
→公家や武家、庶民も志を達成できるように、人々に希望を失わせないことが大事だ
【4】「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし」
→これまでの悪い習慣を捨てて、世界の法、普遍的な道理に従おう
【5】「智識を世界に求め、大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし」
→知識を世界に求めて、天皇を中心とした国柄や伝統を大切にして国を発展させよう

と、“身分を問わない政治参加”、“志を遂げる”、“智識を求める”など、左内さんを連想させる所々言葉が入っています。
ひょっとして、“五”箇条なのも左内さんが関係していたりしたりするのかもしせません。
まさかね〜。









wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




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