三条実美


【幕末タレント名鑑 「三条実美」】

名前:三条実美(さんじょうさねとみ)
所属:朝廷→明治政府
出身地:京都梨木町(京都府上京区)

生年月日:天保8年2月7日(1837年3月13日)
没年月日:明治24年(1891年)2月18日
思想:尊王・攘夷


第6回は、尊王攘夷派の過激な白豆、三条実美さんです!


実美さんは、摂関家に次ぐ名門・三条家に誕生。
実は尊王攘夷派(=天皇を尊い、外国を打ち払う)の公家メンバーのセンター的なポジションとして当時から結構有名でした。
この思想は、同じく尊攘派(尊王攘夷派)だったお父さんの三条実万(さねつむ)さんの影響だったといいます。
また、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で、政敵の開国派・井伊直弼(いいなおすけ)に父が謹慎処分を受けて、「開国派、許さん!」とさらに尊攘思想を強めていったともいいます。


そんな実美さんのあだ名は「白豆」。
写真を見たら、う〜ん納得!
あだ名というか、実美さんと同じ尊攘派が多い長州藩士たちの隠語だったようですけどね(笑)。


1度目の転機は「桜田門外の変」(1860年)です。
父を弾圧した井伊直弼が暗殺され、実美さんを筆頭とする尊攘派が息を吹き返し、京都の政治を手中に収めます。
そして1862年には、外国に弱腰だった幕府に対して、実美さんは勅使(ちょくし=朝廷の使い)の1人として江戸に乗り込み、「攘夷を実行しろ(=外国を攻撃しろ)!」と強く催促をしました。
天下の幕府に上から物を言うなんて、まさにこの時は、実美リーダーの尊攘派の絶頂期だったわけです!


ところが2度目の転機が・・・。
文久3年(1868年)に起きた「八月十八日の政変」です。
薩摩藩や会津藩を中心とした公武合体派(=朝廷と幕府の協調体制)のクーデターで尊攘派は京都から追い出されてしまいました。
リーダーの実美さんはもちろん、その他に6人の公家の方々が京都から追い出され、このことは「七卿落ち(しちきょうおち)」とネーミングされています。


実美さんの行き先は、尊攘派シンパの長州藩(山口県)でしたが、「第一次長州征伐」(1864年)で長州藩が幕府の大軍に攻められた時は、福岡藩に預けられ太宰府を住まいとしたといいます。
この時、西郷隆盛(さいごうたかもり)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、坂本龍馬(さかもとりょうま)などが実美さんを訪ねてきて政局を語り合ったそうですが、とにもかくにも、実美さんは歴史の表舞台から1度姿を消すことになりました。


そして、3度目の転機が!
それが慶応3年(1867年)の「王政復古の大号令」です。
この歴史用語、いつ聞いてもカッコイイ響きですね(笑)。
これによって武士政権は完全に終わって、明治の新政府がスタートしたのですが、これと同時に実美さんは大復活しました。


新政府軍と旧幕府軍の戦いの「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」では関東観察使(=責任者)に任命され、その後もグングン大復活。
明治2年(1869年)には右大臣となり、明治4年(1871年)には太政大臣(政府の最高責任者 ※日本史上、最後の太政大臣)にまで登りつめました。
明治22年(1889年)には、黒田清隆内閣の内大臣を務め、首相が辞任した後は2ヶ月ほど内閣総理大臣を兼任したそうです。


この素晴らしい大復活劇の背景には、実美さんの人柄の変化もあったみたいです。
若い頃は過激派でブイブイ言わせた実美さんも、京都から追放され長州や福岡での生活を経て、公家らしい温和な人柄へと変わったと言います。
当時のイギリス公使の夫人によると、「(実美さんは)政治にはもう飽き飽きした上品な紳士」だったそうです(笑)。


その飽き飽き紳士ぶりを物語るエピドードを最後にご紹介。
明治6年(1873年)、「征韓論(せいかんろん=朝鮮に出兵し開国を迫る)」で新政府は真っ二つに割れました。
征韓論を主張する西郷隆盛、板垣退助(いたがきたいすけ)などに対して、国内の改革を優先すべきだと反対する大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)など。
そして、完全な板ばさみにあってしまった実美さんは、困って困って困り抜いて、最終的に熱を出して倒れてしまったそうです。
お気持ちお察しします!



 

wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル