松平春嶽


【幕末タレント名鑑「松平春嶽」】

名前:松平春嶽(まつだいらしゅんがく)
所属:福井藩→明治政府
出身地:江戸城内田安屋敷(東京都千代田区北の丸公園)

生年月日:文政11年9月2日(1828年10月10日)
没年月日:明治23年(1890年)6月2日
思想:尊王・攘夷→開国・公武合体





第25回は、「明治」時代の名付け親、松平春嶽さんです!

一般的にあまり知られていない春嶽さんですが、「政治総裁職(せいじそうさいしょく≒内閣総理大臣)」に就任し、「幕末の四賢侯(しけんこう)」の1人に数えられるほどの、知る人ぞ知る実力者なんです!
(幕末の四賢侯:松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津斉彬)

春嶽さんは、8代将軍・徳川吉宗が創設した御三卿(ごさんきょう)の1つである田安徳川家に生まれました。
「暴れん坊将軍」で知られる吉宗の玄孫(やしゃご=孫の孫)に当たるそうです。
徳川一門と言ってもそんなに裕福ではなく、幼少期の春嶽さんは勉学や稽古など、とにかく厳しくしつけられて育ったといいます。

天保9年(1838年)、福井藩主・松平斉善(なりさわ)が急死に伴って養子となり、わずか11歳で当主の座に就きました。
趣味の読書で培われた教養を武器に、藩政改革を断行していきます。

主な改革を挙げると、、、
・「藩札」発行! →領内の経済の安定化
・藩校「明道館」開設! →西洋の科学技術や経済学を学ばせ人材育成
・身分を問わない人材登用! →橋本左内(さない)、中根雪江(せっこう)、三岡八郎(後の由利公正)などの改革派を登用
・洋式大砲の製造開始! →対外政策&殖産興業
・全藩士の給料3年間半減&自身の経費5年間削減 →予算縮小で経済安定化
などなど!

こういった業績から春嶽さんは「名君」と称されています。
中学・高校・大学の年齢に、こういった改革を推し進めるんですから、相当な知識&知恵&胆力があった方だと理解できます!

以上の政策から見て取れるように、実に開明的な春嶽さんでしたが、嘉永6年(1853年)のペリー来航の際には、意外にも過激な尊王攘夷派だったと言います。
ところが、世界情勢をさぐっていくうちに「攘夷は不可能」ということを察し、安政3年(1856年)までには開国派へ転じました。
この時、時代の流れは尊王攘夷だったこともあり、「朝敵」や「国賊」、「佐幕兇党」などとののしられたそうです。

幕府はこの時、開国か攘夷かという問題以外にも大きな問題を内部に抱えていました。
「将軍継嗣問題」です。
13代将軍・徳川家定の跡取りを誰にするかで、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す「一橋派」と、徳川慶福(後の徳川家茂)を推す「南紀派」で大きく対立!
春嶽さんは一橋派の後援者となるんですが、南紀派の井伊直弼が大老に就任し万事休す。
将軍の跡取りは慶福に決定してしまいました。

さらに悪いことが起こります!
「日米修好通商条約」を朝廷の勅許なしに調印したことに抗議するために、無断で江戸城に押しかけ激しく抗議したことを咎められ、隠居謹慎処分となってしまい、ほぼ軟禁状態となってしまったんです。
(この頃から「春嶽」と名乗るように。諱は「慶永(よしなが)」)

春嶽さんがこの罪を許されたのは、文久2年(1862年)!
何と4年もの歳月が流れていました。
政敵・井伊直弼は、安政7年(1860年)の「桜田門外の変」で暗殺され、京都には薩摩藩・島津久光(ひさみつ)が軍を率いて上洛し幕政改革(「文久の改革」)に乗り出していました。
その改革者として指名された春嶽さんは、現代の内閣総理大臣に当たると言われる「政治総裁職」に就任します。(将軍後見職に一橋慶喜、京都守護職に松平容保)

文久3年(1863年)に上洛するんですが、これがウマいこといきません!
春嶽さんが掲げる「開国をして幕府と朝廷が手を取り改革を」という公武合体論は、京都にはびこる尊王攘夷論にはねかえされてしまったんです。
上洛して間もなく職を辞任し、帰国することになってしまいました。
福井藩でも激しい尊王攘夷論が巻き起こっており、「福井藩全軍で上洛をして天下掌握!」計画が立てられていたそうで、春嶽さんはこれを何とか静止させたと言われています。

帰国して間もなくすると、再び政局は一変!
「八月十八日の政変」により、京都から尊王攘夷派が追放され、公武合体派が政権を握ることになったのです。
公武合体ということで、春嶽さんの出番がやってまいりました。
再び上洛すると、朝廷から任命された有力な大名経験者が構成メンバーを務める「参預会議」に参加します。
(その他に、一橋慶喜、松平容保、山内容堂、伊達宗城、島津久光)
春嶽さんが掲げた公武合体の理想のカタチに近い体制がここに出来上がりました!

が、約半年で崩壊!
参加者の意見が全然合わないわ、慶喜が泥酔して「この3人(島津久光、松平春嶽、伊達宗城)は大愚物(ぐぶつ)、大奸物(かんぶつ)であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい!」と失言してしまうわで、春嶽さんの理想は結局理想で終わってしまいました。
ちなみに、春嶽さんは会議に参加した諸侯などからは「鋭鼻公」と呼ばれていたそうです。
残っている写真を見ると、確かに納得!鼻が特徴的です。

さて、慶応2年(1866年)、春嶽さんが大反対したという「第二次長州征伐」は幕府軍の敗退に終わり、政権がカオスと化してくると、ここで再び春嶽さんにチャンスが到来します!
「参預会議」の再チャレンジとも言える「四侯会議」が開かれることになりました。

構成メンバーは、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光の4名でした。
長州藩の処分問題や兵庫開港問題などを話し合うんですが、これまた全くまとまらない!
ここでも会議をカオスな方向に持っていったのが、15代将軍に就任していた慶喜でした。
結局、4人ともウマく慶喜に丸め込まれ、こちらはわずか1ヵ月で崩壊してしまいました。
ここでも春嶽さんの理想は現実に成りきれなかったわけです。

この会議の崩壊以降、薩摩藩や長州藩は本格的に倒幕へと動き始め、幕府は「大政奉還」を余儀なくされました。
春嶽さんはこれに賛同していますが、最後の手段であり実行したくなかった策であったと言われています。
その後、「王政復古」が宣言され、倒幕の総仕上げである「戊辰戦争」へと突入していきました。

明治維新後の新政府で、内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿などを歴任した春嶽さんは、徳川宗家を存続させるために赦免活動に努めたと言います。
明治政府の藩閥的で特権主義なやり方に当初から不満を抱いていた春嶽さんは、明治3年(1870年)に全ての官職を辞して政界を引退し、亡くなるまでの20年間を執筆活動に専念したそうです。

中国の書物である「易経」の中の「“明”に嚮(むか)いて“治”む」という言葉から名付けられた“明治”時代!
この元号は、春嶽さんが明治天皇に提案したものだと言われています。
幕末に理想を実現しようとした春嶽さんがこの元号に込めた願いは、明治政府には届かなかったのかもしれません。



 

wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル



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