武市半平太


【幕末タレント名鑑「武市半平太」】

名前:武市半平太(たけちはんぺいた)
所属:土佐藩
出身地:土佐国吹井村(高知県高知市仁井田)

生年月日:文政12年9月27日(1829年10月24日)
没年月日:慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)
思想:尊王・攘夷





第30回は、土佐勤王党を率いたアゴ先生、武市半平太さんです!

半平太さんというと、大河ドラマ『龍馬伝』の大森南朋さんが名演した武市半平太をイメージする方も多いんではないでしょうか?
誠実でまっすぐで、ちょっと不器用な大森半平太にグッときたことを覚えております。
さて、歴史上に残る半平太さんは一体どんな人物だったんでしょうか。

土佐藩には「上士(じょうし)」と「下士(かし)」という、徹底的な武士の身分制度がありました。
下士は、
・下駄や足袋を履いてはいけない。草履はOK。
・着物は綿の着物を着ること。絹はNG。
・上士を見かけたら頭を下げて道を譲ること。
・上士の家柄の女性とは結婚できない。
・お城の敷地内に住んではいけない。
など、生活を制限されて上士や藩に大きな不満を抱いていたといいます。

半平太さんの身分は白札(しらふだ)です。
これは上士と下士の間の身分で、制限はあったものの上士に準じた扱いを受け、藩政にも参加できたといいます。
この後、主に下士を率いて土佐藩の政治を動かしていくわけなんですが、その基盤には白札という身分も関係していたかもしれません。

外見は、
・身長6尺(約180cm)のガッチリ体型
・色白で涼しげな雰囲気を持ったイケメン
・大きめのアゴ(坂本龍馬などからは「アゴ先生」と呼ばれたとか)
だったそうで、お酒は飲めず甘党で非常に愛妻家だったと言われています。

さて、小さい頃から文武両道で書画も得意だったという半平太さんは、剣術で頭角を現しました。
一刀流の免許皆伝を受ける程の腕前で、嘉永7年(1854年)の25歳の時には高知城下に道場を開きました。
翌年に新築した道場には、中岡慎太郎や岡田以蔵など120人もの門弟が集まり、後の「土佐勤王党」の母体となっています。
安政3年(1856年)には、藩から江戸への剣術修行が許され、江戸三道場の1つである士学館へ入門し、何と、翌年には塾頭となり、門徒の指導にあたったそうです。

この時、国政の中心では激しい政争が繰り広げられていました。
安政6年(1859年)、土佐藩主の山内容堂に隠居&謹慎処分が下されます。
これは将軍継嗣問題で容堂と対立していた、大老の井伊直弼が命じたものでした。(「安政の大獄」)
そして、翌年には「桜田門外の変」でその直弼が暗殺されてしまいます。
すると、幕府の力は一気に衰え、「幕府には任せておけない!」とばかりに、尊王攘夷の機運が高まってきました。

半平太さんは、土佐藩をその尊王攘夷という時代の波に乗せようと動き始めます!
文久元年(1861年)に江戸で薩摩藩と長州藩と水戸藩の尊王攘夷派の面々と交流しました。
そこには久坂玄瑞や高杉晋作などがいて、玄瑞から聞いた吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき=民衆よ!今こそ立ち上がれ!)」思想に激しく共鳴したと言われています。

玄瑞や晋作などに多大な影響を受けた半平太さんは、さっそく行動に移します。
同年に築地の土佐藩中屋敷で「土佐勤王党」を結成し、その盟主となりました。
加盟者のほとんどは下士などの下級武士で、その中には坂本龍馬や中岡慎太郎、岡田以蔵などがいました。
その数、何と200人あまり!
いかに半平太さんが下士たちから支持されていたかがわかります。

下級武士とはいえ、土佐藩も放っておけない勢力となり始めた勤王党は、開国・佐幕・公武合体派という幕府よりの土佐藩に、幕府ではなく朝廷を中心に日本を盛り立てようという尊王攘夷を献策します。
が、返ってきた答えはNO!
「今の土佐藩があるのは、徳川家のおかげ」という、約260年続く藩の考え方を変えることは容易ではなかったんです。
半平太さんの政治改革は失敗に終わり、「土佐藩は古い!」とばかりに坂本龍馬など脱藩する志士が相次ぎました。

そういった時勢の中、勤王党の仲間から脱藩を勧められた半平太さんですが、あくまで「土佐藩を尊王攘夷に!」という姿勢からぶれず、脱藩を断ったそうです。
その真っ直ぐさゆえでしょうか、半平太さんはある危険な計画を断行しました。
土佐藩の参政である吉田東洋の暗殺です!
勤王党の志士3名が東洋は暗殺し、藩のクーデターに成功しました。
藩の重職には尊王攘夷派で勤王党に理解のある上士が就き、実質上、半平太さん率いる土佐勤王党が藩政の主導権を握ることとなりました。

土佐藩の政治を動かせるポジションまでたどり着いた半平太さんは、国政にも大きな影響を与え始めます。
藩主・山内豊範を奉じて上洛すると、他藩や朝廷と交渉し、幕府へ攘夷実行を命じる勅使を江戸へ派遣することに成功しました!

これは文章にすると何気ない一文ですが、半平太さんにとってはまさにハイライトなシーンなんです!
土佐藩の下士が中心である土佐勤王党が、朝廷を使って幕府に命令を下したということになるからです。
【幕府―土佐藩―上士―下士】という力関係が逆転!というわけなんです。

そして半平太さんは、文久3年(1863年)に白札から上士(留守居組)に見事に昇格することとなりました。

ところが!この前後から雲行きが怪しくなっていきました・・・。
土佐勤王党は過激派として有名で、「天誅」と称して敵対勢力の要人の暗殺を重ねていたんです。
実行犯で有名なのは、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵などです。
こういった勤王党の行動を前藩主の山内容堂は苦々しく思っており、弾圧の機会をうかがっていました。

そういったタイミングで起きたのが、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」です。
この政変によって、京都の尊王攘夷派の勢力は一掃されて、公武合体派の時代となってしまいました。
すると、この機を逃すまいと、容堂による勤王党の大弾圧が始まり、同志たちは次々に投獄され、吉田東洋の暗殺実行の犯人探しの拷問を受けることとなりました。
上士になっていた半平太さんは拷問を受けることはありませんでしたが、同志たちは激しい取り調べを受け、拷問死をする者や、自ら毒を飲んで死ぬ者もいました。

勤王党への取り調べが激しくなり、自分の最後が近づいていることを悟った半平太さんは、獄中で自画像を描き、妻と姉に送ったそうです。
この絵は現存し、一瞥するだけで半平太さんの絵画の腕前を感じ取ることができます。
果たして自分だったら、死が目の前に迫る獄中で、こういった涼しげな落ち着いた作品が描けるものだろうか・・・。
半平太さんの肝の座り様や家族への愛情、懐の深さも感じ取ることができるような気がします。

さてそんな折、岡田以蔵が京都で捕縛されて土佐に送られてきました。
半平太さんは、以蔵の自白を恐れて毒殺を計画しますがこれに失敗。
以蔵は半平太さんの行動に怒り、吉田東洋暗殺などの一連の事件を自白してしまったそうです。
それでも、まだ捕まっていない同志たちを気遣って「知らぬ。存ぜぬ」を通した半平太さんは、最終的に「主君に対する不敬行為」という罪目で切腹を命じられました。

切腹は即日に刑が執行されました。
故事に明るかった半平太さんは、三文字割腹の法を用いて古式に則って見事に切腹してみせたと言われています。
何でも、この切腹の方法はそれまで誰もやりきることができなかった方法なんだそうです。

享年37。

辞世の句は「ふたゝひと(再びと) 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」。
“流れていった月日は儚いものだけど、私が今までやってきたことに悔いはない!”
半平太さんの実直さや潔さが詰まっている一文です。








wrigting by 歴史芸人 / 長谷川ヨシテル




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